ゆとり世代だけに、ゆとりある生活を送りたい、キスケです。
今回は、僕が父親失格だという話をとりとめなく書いていく。
育児に苦痛を感じる
生後半年の息子がいる。息子のことは可愛いと思う。
息子が生まれてから、生活は一変した。今のところ、悪い方向にだ。
自由な時間が減った。以前は、仕事から帰ってからの時間は食器洗いや風呂掃除をするくらいで、あとは好きなことをしていた。今は息子と遊んで、風呂に入れて、寝かしつけをしている。
好きなことができないわけではない。でも、世話をしなければならない存在がいることに常にプレッシャーを感じている。夏休み、やりかけの宿題のことが頭に引っ掛かり、思い切り遊ぶことができなかったときの感情と似ている気がする。
コミュニケーションの取れない赤ちゃんに対する育児そのものも楽しいものではない。
息子に対し、「コイツに自由を奪われている」と思ったことは一度や二度ではない。
ちいさいひとという漫画を読んで、とりあえず虐待だけはせずに済んでいる。
子どもへの愛情はあるか
息子に対する愛情はあるつもりだ。しかし、息子という存在を目の前にしたとき、それは波があるもので、その一瞬一瞬で出たり消えたりする。息子が笑ってくれたり、可愛いしぐさを見せてくれたときは愛しいと思う。一方で、泣きやまなかったり、グズグズしているときは、イライラして愛情はすぐに消し飛んでしまう。
自分の精神状態が平静なとき、つまり息子を目の前にしていないときや、外にいて素の自分でないときは愛情を持っているといえるのだが。
しかしこれは、果たして本物の愛情なのか?
僕が嫁に感じている愛情は、性格、しぐさ、癖など、彼女がの持つ「個性」があるからこそ、同じ時間を過ごしてきた思い出があるからこそだ。
生まれたばかりの息子は、まっさらな状態。「個性」はない。「思い出」もない。
多分僕は、息子に対して、本当の意味での愛情は持てていない。
赤ちゃんを一人の人間として見れない
ある日、息子の寝かしつけしていたが、全然寝てくれなかったことがある。
僕は、ずっとグズグズしている息子にイライラが頂点に達して、泣き疲れたら寝るだろうと思い、布団に置いて泣かせっぱなしにした。
それを見た嫁に、「なんでそんなにかわいそうなことするの」と泣かれた。
そういえば僕は、息子を「かわいそう」だと思ったことがなかった。
むしろ、育児で自由な時間が減った自分のことを「かわいそう」だと思っていたくらいだ。
僕は、物言えず、感情表現が十分にできない息子を、一人の人間として見ていれていないのだと思う。
こんなはずではなかった
そもそも、なぜ子ども作ることになったのか。
僕は昔から、日本国民として、人間という生物の義務として、子孫を残す必要があると漠然と思っていた。
そして、嫁のことが好きで結婚したから、当然嫁と子どもを作るべきだと思ったし、嫁もそれを望んだ。
僕は、自分が子ども好きだと思っていた。
でもそれは、意思疎通ができて一緒に遊ぶことができるくらいの年齢の子で、24時間365日一緒にいなくていい、嫌な部分を経験しなくていい期限付きの関係だったからだ。
息子が生まれてくることを望んでいたし、自分は子ども好きだと思っていた。こんなはずじゃなかった。
「子育ては女の仕事」という考え方がなくならない理由
僕の職場では、「子育ては女の仕事」だと考えている男性が少なくない。
そう考える人は、育児がしんどいからやりたくないのだと思う。
女の仕事という考え方が普通なら、少し家事や育児を手伝っただけでも感謝される。自分の仕事でないことをやったのだから。
僕も、嫁が専業主婦で、生活費を全て稼いでいるのだから、育児は全てやってほしいと考えてしまうことがある。
世間が賞賛する父親像
FUNKY MONKEY BABYSのヒーローという曲がある。家族のために頑張る父親を歌詞にした曲で、リリース当時は人気も知名度もすごかった。
僕も当時は自分の父親を重ねて感動した。しかし、今になって聞いて、驚愕した。
So溜まったストレスをこらえて 遊びに行きたい気持ち抑えて
ネオン街の誘惑 すりぬけて週末
体にムチ打って家族サービス また迎える月曜日
男は涙をこらえながら 大切な人を守るもんさ 天晴れ!
その背中で愛を背負ってYeah Yeah今日も行く
この歌詞に書かれているような姿が父親の理想像であるなら、僕には到底無理だ。あまりにも自己犠牲的すぎる。
また、「家族サービス」という言葉が出てくるが、家庭をかえりみることは全て自己犠牲なのだろうか。息子が大きくなり、コミュニケーションが取れるようになってから、一緒に遊園地や水族館に行くのは楽しいんじゃないかと思うのだが…
もしそうだとしたら悲しすぎる。
しかし、PVに父親役で出演した羽鳥アナウンサーは離婚したし、ファンキー加藤もネオン街の誘惑(?)に負けている。
この曲の歌詞を実践できている父親が何人いるのか、正直疑問でもある。
育児はギブアンドテイクではない
僕は、世の中はギブアンドテイクであるべきだという考えが強い。頑張ったらその分ご褒美が欲しい。してもらったことは返すべきだと思うし、してあげたことは返してもらうべきだと思う。
義務を果たさずに権利を主張する人が嫌いだ。今まで、「お前が言うな」と言われてもおかしくない言動をする人を見下してきた。
でも、僕はどうだろうか。両親は僕にたくさんのお金と時間を費やし、自分を犠牲にして育ててくれた。
僕は社会人になってからというもの、年に2回ぐらいしか実家に帰っていない。あとは父の日と母の日に物を贈るぐらいだ。僕自身、ここまで育ててくれた2人に、何も返せていない。両親に見返りを求められたこともない。
僕自身、ギブアンドテイクの法則を守れていない。
それなのに僕は、生まれて間もない息子への育児に見返りを求めてしまう。
自己犠牲を幸せだと思えない人は親に向いていない?
育児は、親の自由を子どもに捧げることで成り立つものだ。
つまりは自己犠牲であり、それを少しでも幸せだと思えないと親には向いていないと思う。
僕の妻は、育児はしんどいが楽しいと言う。本当にすごいと思うし、尊敬する。
僕は育児を楽しいとは思えない。参加する理由は義務感からである。
今まで好きなことをしていた時間を育児に費やすことが自己犠牲だと感じる人は、父親には向いてないのかもしれない。
結婚し、息子を持つ以上、僕の人生は僕だけの物ではないことはわかっている。
一方で、僕の人生は、家族のためだけの物でもないとも思ってしまうのだ。
嫁が偉大すぎる
ここまで自分だけが大変であるかのように書いてきたが、あくまでメインで育児しているのは嫁である。僕の嫁は偉大だ。
ここに書いてあること全てを知られるとさすがに捨てられるかもしれないが、育児を楽しいと思えず、苦痛であることは伝えてある。
嫁は、「悲しいけど仕方ない。父親が自覚を持つのは遅いとよく言われることだからそんなに期待もしてないよ」と言い、日中も一人で育児してくれているのに、更に育児の負担割合を増やしてくれた。
しかも僕のことを心配してくれているようで、息子が一人で遊んでいるときや寝ているとき、僕のそばにいる時間を増やしてくれた。
結婚した人が嫁で本当に良かったと思う。
出口は見えない
最近は寝かしつけや遊びに自分自身の筋トレを取り入れ、筋肉という見返りを手に入れようと試行錯誤中である。
不謹慎極まりないが、今の僕は、嫁への配慮や義務感から育児に参加しているに過ぎない。
時間が解決してくれるのだろうか。今はまだ、出口の見えないトンネルの中にいるような感覚だ。
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