たぬき暮らし

たぬき顔の嫁と子供と暮らしているので。

ゆとり世代の自分が部落差別を経験した話

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僕の地元は、被差別部落です。同和地区という名称の方が、今は一般的でしょうか。

平成が終わろうとしているこの時代、「そもそもそんな言葉を知らない」という人もいると思います。


「部落差別」はかつて全国的な運動が起こる程のセンセーショナルな問題でしたが、時代が進むにつれて、部落差別はどんどん風化しています。


僕は今26歳ですが、小学生のとき、部落差別がきっかけで友達を二人失いました。

「電車男」や「オレンジレンジ」が流行っている頃でした。


今回は、上記のことを含めて、高校卒業まで同和地区で暮らしていた僕の経験をまとめます。

記事にしようと思ったきっかけ

こうの史代さんのこの世界の片隅にという漫画作品がきっかけです。


太平洋戦争の頃、広島市から呉市へ嫁いでいった1人の少女の半生を描いた作品です。
戦争を取り扱った作品といえば、暗く悲惨な描写が多くなりがちですが、この作品は


「戦争という状態にあっても、当時の人々にはそれぞれの”暮らし”があって、現代と同じように笑ったり、泣いたり、怒ったりして生きていたんだな」


ということがわかる、「日常」をテーマにした作品です。


さて、「この世界の片隅に」の作中には「隣保館」という施設が何度も登場します。


このワードが気になったのでネットで調べてみると、wikipediaで以下のように説明されていました。

同和地区内に同地区住民を対象とした社会福祉施設を設置する。例として隣保館および教育集会所(同和教育集会所)などが挙げられる。隣保館については、地域あるいは自治体などの別によって、解放センター、解放会館、コミュニティセンター、人権文化センター、人権のまちづくり館など、呼称を異にすることもある。


つまり隣保館とは、「被差別部落に設置された施設」であることが多いようです。


僕の実家がある地区には「人権文化センター」があります。


それを目にして、母に
「うちって同和地区なの?」と尋ねたら、
「そうだよ」
と言われて、初めて自分の出身地が同和地区であることを知りました。


これは大学生の頃の話です。
それからブログ開設まで何年も掛かりましたが、いつかこの話をまとめて、「誰かに伝えたい」と思っていました。

同和地区について

同和地区とは?

僕は小学生のときの道徳の授業で同和地区について習いました。


起源ははっきりしておらず、諸説あったかと思います。


僕が覚えているのは、

室町時代~江戸時代で、『えた』『ひにん』という職業(身分)の人が卑しい人間であるとして、差別を受けたことがはじまり。例えば『えた』は動物の皮製品を作る職人集団だが、『死』を扱う職業として忌み嫌われるようになった。そうした差別は、代々その地に残り続け、明治維新後、子孫がもはやかつての職業と違っても、その地域にいること自体が差別の対象となってしまった。現代においては、部落出身者という理由で就職や結婚の際に冷遇される。

というようなことです。


かつては、部落地域をリスト化した、「部落地名総鑑」という本が売られていたそうですが、今も存在するのでしょうか。


「数百年昔から差別されたきた地区≒同和地区」といっていいと思います。

「前から差別されていたから、これからも差別する」
そういう思考なんでしょうか。全く論理的ではないですよね。


ただ、同和地区出身であることを悪用しようとする人もいるみたいです。


2002年に終了していますが、被差別部落の差別解消を目的とした同和対策事業では、道路の舗装による高額な立ち退き料や税金の減免など、同和地区に居住する人は経済的な恩恵を受けることができました。


役所で勤務する友人から聞いたのですが、同和地区出身であると言って、何かにつけて優遇されようと高圧的な人が時々いるそうです。


同和地区の雰囲気

大学進学や就職で地元を離れて生活してみると、「地元の雰囲気は特殊だった」と感じます。


僕の地元は農業従事者が多い普通の田舎です。
ですが、実家がある地区はアウトローな人が多く、他の地域に比べると治安が悪いです。


庭に仁王像を置いている家がありますし、街宣車っぽい車を見かけたことも何度かあります。


同級生や先輩に不良が多くて、逮捕される人もいました。


10年程前までは野良犬の数も多かったです。追いかけられて噛まれたこともあります。


どのような差別があったか?

僕は、差別されたことがありません。
同和地区に対する差別的な発言すら、聞いた記憶がありません。


しかし、僕の出身地区内、つまり同じ部落の中での差別がありました。

地区の外れに住む人が、地区の中心に住む人を差別していたのです。


僕の実家は、地区の外れにあります。
父と祖父母も例外ではなく、地区の中心に住む人達のことを嫌っていました。他の市から嫁いできた母は違いましたが。


なので、これは厳密には部落差別ではなく、「部落内差別」とでも言うべきでしょうか。
僕が友達を失ったのもこの部落内差別が原因です。


なぜ、同じ部落の中で差別があるのか?
それは僕にはわかりません。


もしかしたら、「同じ部落でも、中心部の方が部落の血が濃い」とか、そんな理由で中心部の人の位を勝手に低く設定したのかもしれません。人は階層を作りたがる生き物ですから。
もしくは、地区の端と中心で同和対策事業で受けられた恩恵に差があって、それが差別に繋がったのかもしれませんね。


ブルーハーツのTRAIN-TRAINの歌詞を思い出しました。

弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者をたたく

友達を二人失った話

小学校時代、地区の中心に住む友達が二人いました。
A子B太です。


A子は1学年下の女の子です。
すぐに蹴りを入れてくる生意気な子でしたが、人懐っこくてたぬき顔で可愛かったです。僕はA子のことが好きでした。僕のたぬき顔好きの始まりは、完全にA子だと思います。A子も僕のことが好きだったと思います。クラブ活動のサッカーを見に来てくれたり、手紙をくれたりしたからです。手紙には「I LIKE YOU」と書いてあったのですが、小学生の僕には読めませんでした。
※ゆとり教育のド真ん中世代なので、小学生で英語は習っていませんでした。


もう一人のB太は、3つ下の男の子です。
B太は僕を兄のように慕ってくれました。親の許可がもらえずサッカー部には入りませんでしたが、休み時間はよく一緒にサッカーをしていましたし、休みの日も一緒にゲームしたり、公園に行ったりしていました。


A子B太と僕は同じ地区なので、一緒に帰ってそのまま三人で遊ぶことがよくありました。


A子のお父さんはちょっとやんちゃそうな人で、お母さんは優しくて美人でした。
B太の両親は普通の人でした。どちらの両親も僕のことを可愛がってくれました。


しかし、僕の父と祖父母は、二人と遊ぶとき、態度がぎこちなかったことを覚えています。
二人が挨拶してもあまり目を合さず、僕の家で遊んでいるとき、話し掛けるわけでもなく覗きに来て、感じが悪かったです。


そういうことが続いたので、僕の家で遊ぶことはだんだん少なくなりました。


小学6年生の夏休みのことでした
A子B太と遊びに行こうとした僕に、父と祖父母が「これからあの二人と遊ぶのはやめなさい」と言いました。
「二人の家系の人達は昔から態度が悪く、挨拶ができなかったり、家のローンを踏み倒してるし、みんなから嫌われている」というのです。


今だったら、絶対に反論します。でも、当時の僕にとって親は絶対的な存在でした。


僕は、「約束したからとりあえず今日は遊ぶ」と精一杯の抵抗をして家を飛び出しましたが、親に反抗していることが不安になり、一緒に遊びに行く途中で「急用を思い出した」と言って帰ってしまいました。


いつも遊んでいるときに次の約束をするのですが、約束をする前に僕が帰ってしまったので次の約束を取り付けることができませんでした。
夏休みのことで、お互いに電話で連絡することもしなかったので、始業式まで一度も会うことはありませんでした。


新学期に再会しましたが、僕はA子B太に対して自然な態度で接することができませんでした。A子も夏休みの一件や僕の態度で何かを感じ取ったのか、あまり話しかけてくることはなくなりました。
B太は変わらず僕に接してくれて、休み時間はそれまでと同じように一緒にサッカーをしていましたが、学校の外ではあまり遊ばなくなりました。


それから、三人で帰ることはなくなりました。


みんな学年が違うこともあり、僕が中学に進学してからは会うこともなくなりました。年賀状のやりとりもそのうち途絶え、交流がなくなりました。


中学生になった僕は、A子からもらった手紙の「I LIKE YOU」内容にようやく気付きました。B太がサッカー部に入ることを許され、ポジションは僕と同じディフェンスを始めたことを聞きました。


人並みに思春期を迎え、親が絶対的な存在ではないと思うようになり、小6の夏休みに勇気が出なくてA子とB太との関係をなくしてしまったことを後悔しました。


でも、合わせる顔がないという思いと、少し面倒だと思う気持ちで、実際に何か行動することはないまま、中学を卒業し、高校を卒業し、実家を出て今に至ります。


今でも、あのときの自分自身の行動について思い出すことがあります。
「親が絶対だったあの頃は、ああするしかなかった」という言い訳と、言い返す勇気がなかったことの後悔。そして、もし反抗していたら三人の関係はどうなっていたのかという妄想と共に。


後日談

後日談といっても僕が大学1年生のときの話なので7~8年前の話です。
偶然僕の母がB太のお母さんに会って、B太の近況についての話が出たそうです。


B太は高校1年生になり、高校でもサッカーを続けていて、大事な試合のときには僕が小6のときにお土産でプレゼントしたネックレスを身に付けてくれていたそうです。
ネックレスを試合で付けるのは本当は禁止らしく、注意されてからはバッグの中に入れているとのことでしたが、まだ僕のことを慕ってくれていたということを知ってすごく嬉しかったです。


この話を聞いたときの嬉しさは、言葉では表せません。その話を聞いたときの感情で、これから先ずっと生きていけるような気がしました。

でも、同時にそんな純粋なB太を裏切ってしまったんだと落ち込みました。


部落差別は風化していく。でも“差別”という存在はなくならない。

父には以前、A子B太のことについて話をして、謝罪してもらいました。

父曰くA子B太の家系の人は良くないと言われて育って、他の人も差別していたから、自分もそうすることに疑問を感じなかった」とのことでした。


周囲が皆そうしていたという「環境」が父にそうさせてしまった部分は大きいと思います。ただ、父は認識を改めてくれました。


僕の祖父は既に亡くなり、祖母も認知症が進行しています。

差別していた側の人たちも、されていた側の人たちもだんだんいなくなり、僕の地域での部落差別は風化していっています。


でも差別そのものはなくなっていません。


誰しも「優位に立ちたい、特別な存在でありたい」という気持ちがあります。


誰かの揚げ足を取って、下に見て、馬鹿にすること。
それは、自分が努力せずに正義を盾に優越感に浸ることができる楽で手っ取り早い方法です。


最近では、不倫や盗作、中国、韓国がその対象でしょうか。
不倫は良くないし、盗作は法律違反です。中国や韓国の政治は問題があると思います。


でも、不倫や盗作をした人は、ルール違反ですが、人間失格ではありません。
中国・韓国という国に問題があるとして、全ての中国人と韓国人が悪者ではないと思います。


僕たちに「努力せず優位に立ちたい、特別でありたい」という感情がある限り、差別をなくすことはできないと思います。


周囲に流されず、自分で考えることが差別を無くす

「みんな」が言っていると口癖のように言う人がいます。「みんな」とは、誰のことでしょうか。
僕には、「みんな」という存在を大義名分にしようとしているだけに聞こえます。


自分の意見を通すために「みんな」という言葉を使っていませんか?
「みんな」という言葉に説得力を感じていませんか?


大事なのは、「みんな」ではなく、「わたし」がどう思うかではないでしょうか。


パワプロクンポケット7の黒野博士とパワポケ君の会話で、このようなやりとりがあります。

黒野博士:
正義は本質的に妥協を禁じる。
じゃから善悪の判断が不安定なものがとにかく正義を行おうとすれば・・・

パワポケ君:
自分に逆らうものは全て排除するわけですか。

黒野博士:
あるいは、同じ価値観に洗脳するか。


集団心理の“正義”に左右されず、目の前の個人と向き合って「自分がどう思うか」判断していくことが、この世から差別を無くす唯一の方法なんだと思います。



高橋優 「素晴らしき日常」